01-13 会津へ帰ろう。
兼ねてより、会津地方には、一度訪れておかなくてはなるまい、そう考えておりました。私の故郷、秋田と同じ、東北の玄関口である事、生まれ故郷の駒ヶ根と共通項(カツ丼はソースカツ丼が一般的、揚げまんじゅうなどなど)があること。都会が失いつつある、古き良き町並み、世界的にも珍しい、螺旋状の建物、さざえ堂…。
そして、なにより、私の周りにも、会津を愛する人が多い事実。会津の何が人をそれほどまでに惹き付けるのでしょうか。
それを確かめに行って参りました。(2007年4月14日〜15日)

会津若松へのアプローチは、東北道郡山JCから磐越道に乗って、会津若松インターで降りるのが普通ですが、ちょっと会津若松の南側にある「塔のへつり」に立ち寄りたかったので、東北道須賀川インターを降りて、国道118を西へ走ります。天気はイマイチですが、インターの出口では桜が出迎えてくれました。

国道118を走行中、トリップが20000kmを刻みました。一昨年8月に納車して、2年を待たずに…。記念に撮影。高速乗ってる時じゃなくて良かったです。 118号をしばらくいくと、羽鳥湖という、鶴沼川をせき止めて作られた人造湖があります。ひっそり静かな湖。湿原植物の群落やモリアオガエルの生息地も点在しているという事です。
静かな集落を走っていると、小雨が降ってきました。先日も夜には大雨が降っていたので、果たして天気が持つのか心配でした。目の前には戸倉山(だと思う)。「あれが磐梯山かー!」と勘違いした。 国道118をしばらくいくと、日光街道(国道121)と交差します。ひとまず会津若松と逆の南方向、湯野上温泉方面に少し走ると、塔のへつりの入口が見えます。という訳で、到着。 「へつり」とは、方言で、「崖・急斜面」という意味。阿賀川の右岸の岩壁が縦の節理で10本の塔のようにそびえている、国の天然記念物です。
対岸へ渡るには、この吊り橋を渡って行くのですが、「わざとだろう」と思えるくらい、揺れる。 端の上から、下流方面を眺める。 橋を渡った正面の土俵岩には、水の浸食で出来た廊下のようなくぼみがあります。内部は、このように、賽の河原のようです。
土俵岩の左側には、足場のとても悪い階段が。上って行くと…。 その先には、虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)が祀られています。ここは、舞台岩と言います。昭和45年、高松宮殿下ご参拝との札がかかっていました。 のぼるなよ。
歩いて行ける、一番高いところから下を覗き込む。能登のヤセの岸壁よりは高さは無いけど、それでも足がすくみそうです。 塔のへつりの対岸には、売店も充実しており、名産品や、マムシ丸ごと入った、「マムシ酒」なども売られています。お味噌汁を振る舞っていたので、頂きました。ウマいなあ。
揚げまんじゅうです。私の生まれた長野県は駒ヶ根でも、普通に天ぷらの時は食卓に出る(これがウマいんだわ)のですけど、会津地方でもポピュラーのようですね。しかし、駒ヶ根のはまんじゅうの皮が白いのに対し、会津のものは、皮が黒いのでした。今回一発目の会津ウマいもん。 塔のへつりを後にして、湯野上温泉でひと風呂…と計画していたのですが、ちょっと予定より時間が過ぎてしまったのでスルー。会津鉄道の湯野上温泉駅は、茅葺きの駅舎がいい感じ。野口英世列車も走ります。この近くに、宿場町、大内宿があるのですが、こちらもスルー。あまり欲張ってもね。一路、会津若松を目指します。
会津若松のランドマーク、鶴ヶ城につきました。係の人の指示に従い、西出丸方面の二輪駐車スペースまでくると、その真上にも眩しき桜。しかしながら、まだつぼみもちらりほらりと。 バックミラーにも、タンクにも、花吹雪也。今回は、花よりも、会津を見る事が目的だったのですけども、桜ももちろん嬉しいオプションなのでした。 西出丸から天守閣を目指して散策開始。鐘楼の跡。篭城戦で、激しい放火の中でも、正確に時を刻んでいたそうです。
鶴ヶ城には、ソメイヨシノ、八重桜、彼岸桜が植樹されています。 さて、天守閣が見えて参りました。想像してたより、立派!その高さは36.15m。桜のピンクにつつまれて、ほほ紅塗ったかのようにも見えました。さて、いろんな角度から天守閣を眺めつつ、鶴ヶ城の歴史を…。 1384年、葦名直盛という人が南黒川館を築いたのが始まり。1590年、蒲生氏郷(がもううじさと)が会津藩主として入城、7層からなる天守閣を築き、鶴ヶ城と名付けられました。
その後、加藤嘉明が天守閣を5層にし、西出丸と北出丸を増築。現在の姿となります。 幕末の戊辰戦争の際、約一ヶ月の篭城戦を耐え抜き、「難攻不落」の名城として知られましたが、明治7年に明治陸軍省の命令で取り壊されます。 しかし、元会津藩主、遠藤敬止らの尽力によって、陸軍省から払い下げられ、昭和40年に天守閣が復元されました。平成16年には内部がリニューアルして、お城ミュージアムとなりました。
天守閣の西側、帯郭には、笠間稲荷神社があります。笠間稲荷神社といえば、茨城県の笠間市にあるのが有名だそうですが、以前鶴ヶ城にあった、鶴ヶ城稲荷神社が明治時代に会津若松市の馬場町に移された為、茨城の笠間稲荷から分社してもらったらしいです。 凛々しいきつねの口にくわえられているのは、油揚ではなく、何かの巻物。 鶴ヶ城の天守閣は、内部は、全てが郷土ミュージアムとなっています。入口では会津の伝統的な張子玩具、赤ベコがお出迎え。「ベコ」は牛の事。秋田では、「ベゴ」といいます。秋田の実家の近くには、牛島と言う地域があり、そこの小学校は「ベゴジマ小学校」と言われていました。
天守閣に入ります。石垣の内部は、ヒンヤリと涼しく、塩や、食料の貯蔵庫になっていたそうです。 天守閣から南にのびる南走長屋(みなみばしりながや)、鉄門、干飯櫓(ほしいいやぐら)を眺める。南走長屋は武器を保管していたところ。干飯櫓は食料の貯蔵庫です。 天守閣から、磐梯山と、会津若松の町並みを望む。
スズメが2羽、仲良さそうにしてました。太宰は、スズメが、好きなんですよ。太宰の爆笑必至の短編「畜犬談」にも…。
雀を見よ。何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽(しょうきん)ながら、自由を確保し、人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然(きんぜん)日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。
帯郭の桜を見下ろす。 こちらは本丸。
荒城の月の碑。作曲の滝廉太郎ばかり有名ですけど、作詞は土井晩翠(ばんすい)。戊辰戦争で荒れ果てた鶴ヶ城をモチーフにしたそうです。 月見櫓方面から天守閣を望む。 こちらは、天守閣から見て東側、二の丸の方から架かる廊下橋です。敵兵がこちらより侵入すると、石垣の下に切り落とすことができる、戦略的な橋。左の石垣は、扇の勾配と言われ、別名「忍者落し」とも。
本丸の南東には、麟閣(りんかく)という茶室があります。利休の子少庵(しょうあん)が、蒲生氏郷に、かくまってくれたお礼に建てました。お陰で、利休以来の千家が再興できました。抹茶一席500円です。 天守閣の北には、「武者走り」という石垣があります。階段が二つ、Vの字型に接地してあり、素早く大勢の兵を配置に付けることが出来ます。 こちらは、南走長屋の丁度中間点の折れる部分にある、鉄門。扉の部分全てを鉄で覆っている強固な門。
桜はまだ大分蕾みもありましたが、春の会津の顔、を見る事が出来て、よかったと思います。これから、白虎隊の悲話で知られる、飯盛山へ移動します。飯盛山からあの天守閣は、どう見えるのでしょうか。
まずは腹ごしらえ、会津と言えばおソバもウマいという噂(こういうところも、長野に似てる)なので、飯盛山の南しばらくの、いにしえ夢街道にある、桐屋夢見亭に入る事にしました。本店の桐屋権現亭も有名ですね。 私が注文したのは、「飯豊権現そば」。貴重な一番粉を使うので、1日50食限定だとか。とってもコシが強くて、美味しかった。あ、ウマいソバは、塩を少々つけて食べてもウマいですよ。 飯盛山の玄関口。ちなみに、飯盛山とは、山の形が、ちょうどお椀にごはんを盛ったような形をしているところから、そう名付けられました。様々なお土産屋さんが軒を連ねています。奥には山頂まで、200段の階段が見えます。
スローブコンベアといって江ノ島のエスカーのような夢の乗り物、つまり、エスカレーターがあるのですけど、有料250円。もちろん白虎隊を偲びつつ、足で登る事にしました。 階段を上り切ると、ちょっとした広場にでます。右側に見えるのが白虎隊への手向けとして、ローマから送られた記念碑。火山で滅亡したボンベイの石柱をそのまま使用したもの。 飯盛山には、このように参拝の順路が表示されています。
こちらが、白虎隊が自刃した悲劇の場所です。白虎隊の悲劇は、自刃したが死に切れず、蘇生した飯沼貞吉によって、その様子が伝えられました。 1868年の会津戦争の際、黒煙に包まれた鶴ヶ城をここから見て、落城したと思い、無念から、あるものは自ら、あるものは刺し違えて、若い命を散らした。 自刃の場所から遥か彼方に見える、鶴ヶ城の天守閣。
でも、城を眺める白虎隊の隊士の像の目線で写真を撮ると、こんな感じ。
「お、それ、面白いじゃない」と、皆さん、キレイにカメラ目線をくれた。
雲の影から、天使の梯子。今回のお気に入りの一枚。 こちらは、白虎隊隊士の墓の入口。
自刃した19人の墓。まだ、16〜17歳だったと言います。 こちらは、会津戦争で戦死した隊士の墓。このような歴史の中の悲劇の上に、今の我々の平和があるんだと思うと、とてもたまらなくなりました。 さざえ堂の傍には、白虎隊19士の霊像が安置された、宇賀神社があります。
私が会津に来て見たかった理由の一つ、さざえ堂です。ついに、ご対面です。私の中では、六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、東京ミッドなんとかが、束になっても裸足で逃げ出す、とっても魅力の建築物。国の重要文化財です。 建立は1796年、郁堂和尚という人が考案した、六角3層、高さ16mの巡礼観音堂。
なんといっても最大の特徴は、内部が昇降別々の螺旋通路になっており、昇る人と下る人が絶対にすれ違う事がないと言う内部構造。
螺旋の構造によるキャラクターで、一度見たらもう忘れられない建築物。歴史の中にもエンターテインメント性があって、とっても素敵です。さて、ディテールに迫ってみましょう。
入口に絡み付く、龍。観音様をお守りしているのかな。 入口を下からあおってみたの図。 さざえ堂のてっぺん。
拝観料を払えば、内部に入る事が出来ます。いよいよ、憧れの建築物の胎内に…。 内部の様子。もともと三十三観音を安置しており、それを見ながら上り下り出来るようになっていたのですが、現在は会津藩道徳教本の絵を飾っております。 中心の構造。この建築の青写真をいろいろ思い描いてみましたが、頭がおかしくなりそうでした。不思議だ…。
ここが頂点。千社札が、これまた芸術的に貼られています。このあと、さざえ堂を5往復もしてしまいました。ああ、素晴らしい、本当に素晴らしい。 さざえ堂の裏手には、緩やかで静かに流れる清流があります。この流れはどこから来るのかと言いますと…。 戸ノ口堰洞穴から…。戦闘で敗れた20人の隊士が、この約150mの洞穴をくぐり抜け、飯盛山へ逃れてきました。
洞窟の近くには、厳島神社があります。広島の厳島神社から、勧請を受けたもの。この後、白虎隊記念館を見学して、飯盛山を後にしました。
JR只見線、会津若松駅の一歩手前、七日町(なぬかまち)駅から大町四つ角まで続く、江戸時代から昭和初期にかけての町家や商家、洋風建築が、見事な全体感をもって立ち並ぶ場所。七日町通りを歩きます。 七日町通りの入口のビジネスホテルに一泊して、朝早く起きて、人通りのほとんどない時間に取材開始。スタート地点はこの素晴らしい風格をもった看板の山口薬局。 漆喰の壁が美しい、会津塗りのお店、「福西漆器店
こちらは堂々とした洋風建築で、存在感がある、「白木屋漆器店」。こちらも、会津の漆器のお店。大正3年に作られた建物。 江戸末期の味噌醸造元、「満田屋」。暖炉でじっくり焼いてくれる、田楽が絶品だそうです。早朝なので、もちろん食の部分はお預け。いいえ、建物を撮りに来たのですから…。ハラ減った。 こちらは見事な町家の佇まい、「会津天宝醸造本舗」。
ちょっとアニメの「一休さん」に出て来たような、商家。 「ギャラリー夢蔵」。会津の漆、陶芸、七宝、ステンドグラスの作り手の品物が展示されています。 ちょっとしたタバコ屋さんですけど、しっかり風景の一つとして馴染んでいますね。
現代の、生まれた時から永遠にクリーンであることを宿命付けられた建築には、辟易しています。 100年後も、同じ姿でそこにあるとしたら、どちらが素晴らしいでしょうか。
横尾忠則のポスターのような書体が素晴らしい、スポーツ用品屋さん「バンダイスポーツ」です。こちらも洋風の堂々とした建築物。 会津若松市が、その景観を保存する為の対象としている建築物には、このような表示があり、建物を維持して行く為の行為について市から助成されます。新しさよりも大切にしなくてはならないものをよく解っているんですね。
カブをかたどった看板が可愛らしい、「池田種苗店」。一目でなんのお店か解るような、レリーフが面白い。(クリックでレリーフが見れます) 蔵の座敷で、豆腐料理や、会津米のご飯が楽しめる、「七日町とうふ茶屋 清水庵(せいすいあん)」。豆腐大好きな私としては、ぜひとも食してみたかったのですけど、ええ、早朝ですから。 鶴ヶ城のお茶会の席に、薯蕷(じょうよ)まんじゅうを出している、「熊野屋菓子舗」。薯蕷とは、ヤマイモの事。明治20年の創業だそうです。
うーん、これぞ、ザ・町方商家、「渋川問屋」です。内部は郷土料理屋になっており、わっぱ飯が有名。裏手には、ニシン蔵があり、そこは宿になっていて、なんと、泊まる事も出来るそうです! 七日町駅前には、立派な鐘楼が通りからも目立つ、閑静なお寺、阿弥陀寺があります。鐘楼の後ろに見えるのは、御三階(おさんがい)といって、かつて鶴ヶ城本丸にあった、秘密の会合を行う場所。
狛犬と、モクレン。 境内には、東軍の墓地や、新撰組の斉藤一の墓もあります。 なぜか、この地蔵の表情に、惹かれるものがありまして。
可愛らしい、大正モダンの七日町の駅。看板も素敵です。駅舎内には、「駅Cafe」というカフェがあります。 野口英世洗礼(初恋)の地。かつて英世が通っていた、若松栄町教会があった場所。ここで、初恋の人、山内ヨネと出会ったんだって。
奥は空き地になっており、「清作〜」「ヨネ〜」「アハハアハハ」と走り回るには手狭な印象。
建物の門柱に、このような古い電話番号の表示が残っているところがあります。
竹問屋。庭には立派なこいのぼり。もちろん支柱は竹です。今ではアルミが主流ですから…。都内ではあまり、こいのぼりも見ませんね。 こちらは、レオ氏郷南蛮館。レオとは、キリシタンだった蒲生氏郷(がもううじさと)の洗礼名です。内部には入れませんでしたが、「天主の間」という、天井に金箔が貼りめぐらされ、朱塗りの床の豪華絢爛の部屋もあります。 「つかはら」という呉服百貨店。デパートメントストアという欧文書体がなんともモダンです。
こちらも素晴らしいレタリング。パブマタドール。看板はこんな感じですが、お店の外観は、老舗の雰囲気の良さそうなバーと言った感じです。 レオ氏郷南蛮館のはす向かいに、こんな素敵な物件が売られていました。会津に住みたいと言うアナタ、どうでしょうかっ。 会津若松の伝統的な工芸品の一つに、絵ろうそくというのがあります。ろうそくに、四季の草花を施したものです。こちらは「小澤ろうそく店」。ろうそくの形が抜かれた看板が素敵。絵ろうそく作りを体験出来ます。絵ろうそく専門店は、会津市内にも、もう3店舗しかないんだそうです。
モダンガールと、モダンボーイのイラストも楽しい、スイングスクエアというお店。西洋雑貨店が隣接しています。 この古い住所表示は、現在では、日新町12-38となっています。その場所には何があるかと申しますと…。 その歴史は江戸後期までさかのぼる、酒蔵、「末廣(すえひろ)酒造の嘉永蔵(かえいぐら)」という建物です。一番古い蔵で明治25年に作られたそうです。
ため息が出るくらい、重厚に、歴史の塗り込まれた看板。かつて、野口英世と母シカ、そして石原裕次郎も訪れたとか。 門をくぐると、左手には、一番古い蔵を改装した喫茶、「蔵喫茶杏(きょう)」から漏れる光。自画自賛の一枚。 仕込み水は、誰でも自由に汲んで、持ち帰る事が出来ます。
中に入ると、天井が高く、広々とした空間。4つの和紙で出来た照明が、柔らかい光を放っています。イベントホールや、クラシックカメラの博物館などもあります。 仕込みの様子を見学する事も出来ます。わたしが訪れた時は、もう終了してました。バイクもホテルにおいて来たので、試飲を楽しみに来たんですけど…。 「蔵喫茶杏」で一服する事にしました。とても静かで、雰囲気の良い空間です。
お冷やは、きっと、仕込み水です。「あるじ!まずはウマい水をくれ!」なんて、誰かさんのように言わなくても、ちゃんと出てきますから。 コーヒーと、チーズケーキをいただきました。旅の一日目、温泉も入らなかったですけど、ここに来て、とってもリラックス出来ました。情報提供してくれたnaoさんに感謝!
七日町通りと交差する形で、野口英世青春通りという通りが続いています。その名のとおり、野口英世の青春時代ゆかりの地が点在する通りです。 通りの街頭にはこのように、英世博士のイラストがあしらわれています。「直進左折可」「横断歩道あり」「自転車通行可」「英世あり」みたいなこと? こちらは野口英世が、幼い頃にやけどをして指が全部くっついてしまった左手の手術を受けた、会陽医院の跡。英世が医学の道に進むきっかけとなった場所です。いまでは、一階が「會津壹番館」というカフェ、二階は野口英世青春館という、資料館になっています。カフェの看板が可愛い。
手作りな感じが素敵な、青春館の看板。 青春館内部には、様々な資料がならんでいます。英世は、ここで書生として住み込んで勉強をしたそうです。 会陽医院の看板。
英世が勉強した机。ナポレオンに習って、三時間しか寝ないで、日々猛勉強に励んだと言います。 こちらは會津壹番館のとなり、「福西本店・大町ガス燈」というビアレストラン。黒の漆喰が本当に素晴らしい。 野口英世青春広場には、等身大のブロンズ像があります。台座には、座右の銘、「忍耐」が。
会津の人たちの印象は、とっても人懐っこい、という感じです。気さくに話しかけてくれて、いろいろ会津のことを教えてくれます。故郷を愛してるんだなあというのが伝わります。 お寿司屋さんの店先にあったダックスホンダ。うーん、絵になる。 何を隠そう、私はこの、昔ながらの赤ポストマニアなのです。こういうものが、まったく古さを感じず、当たり前のものとしてある、それが会津若松の街。人と、モノと、歴史を、大切にしているんですね。
大東銀行会津支店は、吉田松陰や土方歳三が泊まったと言う、清水屋旅館の跡地です。 私の生まれた駒ヶ根も、会津若松も、カツ丼と言えば「ソースカツ丼」なのです。会津のカツ丼は食べた事がないので、初日の夕飯はカツ丼にしようという事で、あちこち放浪してお店を探しました。 結局、めぼしいお店が見つからなかったので、宿泊先の近所のトンカツ屋さんにしました。お店の名前、失念。
駒ヶ根VS会津のカツ丼対決第一ラウンドは、駒ヶ根の勝利。ちょっとソースがフツーのトンカツソースっぽかった。
七日町通りや野口英世青春通りの建築物、ちょっと見上げてみると、個性的な鬼瓦が天を仰いでおります。中には、現在では製造の難しいものもあるのです。その一部をご紹介。
二日目、まずは猪苗代湖を目指して、飯盛山の先の交差点から入って、強清水に抜ける、滝沢旧道という狭い道を走ります。途中、眼下に、会津五桜の一つ、石部桜が見えました。 猪苗代湖の北側を東西に走る国道49号と、49号から枝分かれして、湖の南側へ至る国道294の交差するところに、強清水(こわしみず)という湧き水が湧いている場所があります。民謡、「会津磐梯山」にも謡われている、福島の水30選のひとつ。 清潔感のある水汲み場。野趣溢れる…という訳ではないですが、銀色に輝く清水が美しい。一口飲むと、メロスのようだ。「ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。」周囲には、揚げまんじゅうなどが食べられるお店もあります。
雄大な磐梯山を左に見ながら国道49号を走っています。ちょっと脇道にそれて、磐梯山を正面に愛車を撮影。 猪苗代湖の南には、野口英世記念館があります。英世が19歳の時に上京するまで過ごした生家が、当時のまま移築されています。 幼い頃、落ちてやけどをし、左手の指が全てくっついてしまった、その囲炉裏(いろり)も当時のまま。彼が医学の道を志すきっかけがここにあります。
小道具なども、当時の生活が偲ばれるように、自然に展示されています。 こちらが囲炉裏のある居間。右で管理のおじさんが丁寧にお掃除しているのが、かの囲炉裏。 こちらの母屋の柱には、英世が上京する時に志を刻み込んだ柱があります。「志を得ざれば再びこの地を踏まず」
記念館には、英世のゆかりの品や、写真などが多数展示されていますが、何より、私の心をうったのは、母、シカが英世に「帰って来て欲しい」旨を切々と、たどたどしい文章で書いた手紙。観に来ていた家族の母親が、「私はこの手紙を見ると、いつもたまらなくて…」と涙してたその横で、もらい泣きしそうでした。
その、母シカの手紙を、英世の故郷、猪苗代湖の写真とともに掲載します。
おまイの、しせ(出世)にわ、みなたまけました。
わたしもよろこんております。
なかたのかんのんさまに、さまにね(で)んよこもり(夜篭り)をしました。
べん京(勉強)なぼでもきりがない。いぼし(烏帽子)ほわこまりおりますか、おまいかきたならば、もしわけ(申し訳)ができましょう。はるになると、になほかいド(皆北海道)に、いて(行って)しまいます。わたしもこころほそくありまする。ドかはやく、きてくたされ、かねお(金)もろたことたれにもきかせません。それをきかせるト、みなのまれて(皆飲まれて)しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしょ(一生)のたのみて、ありまする。
にし(西)さむいてわ、おかみ(拝み)、ひかし(東)さむいてわおかんておりまする。
きたさむいてわ、おかみおりまする。みなみたむいてわおあかんておりまする。
ついたちにわ しお(塩)たち(断)をしております。
ゑ少(栄昌様)さまに、ついたちにわ、おかん(拝)てもろうておりまする。
なにおわすれても、これわすれません。

さしん(写真)おみるト、いただいておりまする。
はやくきてくたされ。
いつくるト、おせて(教えて)くたされ。
このへんち(返事)ち(を)まちておりまする。
ねてもねむられません。
猪苗代湖を後にして、国道115号を、五色沼目指して北上中、近くのコンビニで出会った、チャリダーの高橋さん。冬の間は横浜で働いて、春になると、農家の手伝いなどしながら、日本全国を旅しているそうです。とっても気さくで楽しい人でした。写真撮らせてくれとお願いすると、こんなポーズを…。 国道115をしばらく行って、途中459号に入らなくてはならないのですが、見落としてしまい、磐梯会津スカイラインの方まで行ってしまいました。
取って返して、ようやく五色沼に到着。大小40もの湖沼があり、片道3.5kmの散策ルートで10数カ所の湖沼をまわれるそうです。
今回は、時間もそれほどなかったので、駐車場近くの、毘沙門沼を散策してみました。本当は無色透明の水ですが、酸性の鉱泉が湧くため、晴れの日には青白い色になります。
その他の沼も、水質と天候の関係、そして苔などの植物によって、様々の色合いを見せます。
毘沙門沼のこの日の水の色は、コバルトブルーでした。この写真が一番見た目に近いかな。 毘沙門沼から見える、磐梯山の姿。 毘沙門沼では、4月から11月の間、ボート乗り場が開設、エメラルドグリーン水の色を、水の上で楽しめます。
五色沼、他の湖沼も見たかったけども、ぐっと堪えて、喜多方へ向かいます。あ、そうそう、裏磐梯近辺では、7-11や、スパーなどのコンビニ或いは出光などのGSの看板の色彩が、こんな感じで、シックになってます。地域の目指す環境色彩計画、つまり景観に少しでもとけ込むような配慮です。 さて、これから、蔵のまち、喜多方へ。五色沼から国道459を西へ向かいます。まだ残雪で、ちょっとした雪の回廊でした。それほど寒くもなくて、空いてる道を、喜多方ラ・アーメンの事を考えながら走ってると、ハラ減って来た。
喜多方駅に着きました。蔵の街を象徴するような、可愛い駅舎です。ここで、ガイドマップをもらって、まずは腹ごしらえ…。 喜多方には、120ものラ・アーメン屋さんが軒を連ねています。
本当は、地元の人に、評判のお店を訪ねてみるのが一番いいんでしょうけども、今回チョイスしたのは、私のもってるガイドブックに載ってた、創業昭和4年の老舗、丸見食堂。
チャーシューメンを頼みました。さっぱりしたスープですが、豚骨、鶏ガラを中心に、煮干しやホタテなどの魚介類、集種の野菜がとけ込んだ、深みのある味です。さらに、喜多方で、喜多方ラ・アーメンを食べていると言う事実が、それをさらに美味しいものにしてくれました。
もう夕刻も迫り、あまり時間もなかったのですが、折角なので、蔵の街を散策してみます。スーパーの駐車場に、迷惑にならないようにバイクを置かせてもらいました。 今回歩いたのは、ふれあい通りの南のエリア、清川酒造店から、若喜商店のあるところまでの、路地裏などです。でも、これは、喜多方のほんの一部に過ぎません。 チョットした路地裏が、いちいちフォトジェニックだったりします。
右の蔵は月8万円で借りれる空き店舗でした。私のうちの家賃と変わらない。ここを自分のデザイン事務所にしちゃおうかなあなんて、素敵なことを考えちゃいました。 清川酒造の古い酒蔵。それにしても、もっと観光客でごった返してるのかと思いきや、割と静かで、普段どおりの表情でしょうか。それがまたいい感じです。
若喜昭和館。お土産や、懐かしいものがいろいろ展示されています。老舗の味噌、醤油醸造元、若喜商店の姉妹店。こちらで、お土産の、「喜多方ラーメンせんべい」を買いました。 若喜昭和館の玄関では、湧き水が飲めます。喜多方の街では、あちらこちらに、このように、湧き水の飲めるところがあります。喜多方ラ・アーメンのウマい理由の一つ。 ちょっと気になるラ・アーメン屋、「大みなと味平」。会津唐人凧をモチーフにしたキャラがかわいい。次回はここにしようかな。
こちらは、先述の若喜商店のれんが造りの蔵です。国の有形文化財に登録されています。内部は、天井から床の間、調度品までが木目の美しい縞柿の木が使われています。 若喜レンガ蔵の、重厚で素晴らしい意匠を見せる看板。 若喜商店の店舗。この建物は昭和6年に建てられたものですが、歴史は1755年創業ととても古い。壊れた看板などもそのままで、当時のまま、という感じがします。木で一文字一文字作った、看板の書体もモダンです。
ふれあい通りの街灯。起き上がりこぼしが描かれています。 笹屋旅館。創業は明治12年の老舗旅館です。竹久夢二ゆかりの宿で、「夢二の宿」とも呼ばれています。隣には、蔵座敷美術館があります。 蔵見世という、お休みどころ。囲炉裏でじっくり焼いた、みそ田楽が味わえます。
またしても、ちょっと気になるラ・アーメン屋。みそラーメンのレタリングが、サッポロ一番の袋麺のまんまパクリなのはご愛嬌。 こちらは、喜多方の酒蔵でも有名な、大和川酒造北方風土館です。寛政2年(1790)創業の老舗です。元々こちらが本店だったのですが、校外に新しい酒造蔵を創ったので、こちらは酒造の歴史を学べる風土館となりました。 酒蔵見学の待合所。酒蔵見学では、「江戸蔵」と、「大正蔵」の二つの蔵で、酒米を蒸した釡場や、酒造道具などを見学出来ます。
会津若松の末廣もとても雰囲気が良かったのですが、こちらは敷地も広く、また違った魅力があります。
奥の扉は、旧仕込み蔵で、様々の企画展や、アーティストの演奏会をやっています。 こちらは酒蔵内の売店。手前の仕込み水はもちろん飲めます。お酒のテイスティングも出来ますが、私はもちろん飲みません。父に、お試しセットを送ってあげました。こちらから、取り寄せる事が出来ますよ。
秋田と同じ東北なのに、一度も訪れた事のなかった会津若松地方ですが、私の知り合いにもファンが多く、なぜそこまで人を惹き付けるのか、この目で確かめて来たのですが、それは、何を大切にして行くべきかが暗黙の了解で解っている、この土地の人々の人柄にもあるのではないかなあと思うのです。その大切にするものとは、昔ながらの町並み、豊かな自然、歴史などなど…。そしてそれを感じに訪れる人々に対しても、会津の人たちは本当に親切。自分たちの故郷を、本当に愛し、誇りに思っているからだと思います。そういう心意気が好きになりました。これまで旅を続けて来て、自ら求めなくても、これほどまでに人との触れ合いが出来たのは始めてかも知れません。
鶴ヶ城の駐車場のおじちゃん、飯盛山のお土産屋さんのおじちゃん、泊まった宿の支配人さん、猪苗代湖のほとりで、トライアスロンの話を聞かせてくれたおじいちゃん「遠浅だから、みんな泳がないで歩いちゃうんだよねー、で、スピーカーで、歩かないで下さい、歩かないでくださいって、さんざん言うんだけど、それがおかしくってね。」なんて言ってた。それから、チャリダーの高橋さん、今はどこを走ってるのだろうか。みんな、本当にありがとう。
誰が行っても、故郷に帰って来たような気持ちになれる場所、会津。
都会に疲れたら、会津に帰ろう。
これから死ぬまでに、何回も訪れる事になりそうです。