01-16 遠野物語(帰郷07)
今年のツーリングのテーマ、「日本の伝統的な建築を廻る旅」。初秋の9月15日、秋田へ久々にバイクで帰省するおり、今年(07年)の朝ドラ、「どんど晴れ」の舞台で、柳田国男の「遠野物語」でも有名な民話の里、岩手県は遠野に立ち寄ることにしました。朝ドラで、その素晴らしい風景を目にしたこと、遠野には、独特の建築様式の曲り家と言われる農家がある、ということ、そして、電車の車内広告で見かけた、カッパ淵の風景写真に感激し、「遠野物語」を手にして読みふけるうち、私の心はどんどん遠野に惹かれて行きました。ツーリングライダーなら、一度は行って欲しい場所の一つです。
今回は、遠野に立ち寄ってから、秋田へ。実家の秋田に滞在中は、未曾有の集中豪雨で、身動きが取れず、予定通り行かなかったのですけど、津軽の深浦まで足を伸ばしました。そして、帰り道に立ち寄った愛すべき秋田の霊峰、鳥海山の5合目に至る、素晴らしいワインディングロード、「鳥海ブルーライン」を紹介します。

9月15日、東北道を延々浦和から盛岡は「北上江釣子IC」まで、464.7km一気に走ります。朝の3時くらいに自宅を出て、10時くらいには着くかなと予測。しかし、道中、濃霧で思った程はかどらず。霧は雨よりタチが悪い。事故で、北上江釣子の手前、北上金ヶ崎で強制的におろされました。この時点で午前11時。

遠野へは、国道107号に乗っかって東へ。北上市の市街地を通り抜け、田瀬湖を超えて、今度は国道283号に乗っかって、延々東(太平洋側)へ向かって走ります。 11時30分、猿ケ石川を堰き止めてできた人造湖、田瀬湖で一休み。うっそりと静かな、不思議の感じがする湖でした。ハスが可憐な花を咲かせています。6月には、あやめ祭りで賑わうようです。
遠野での一つ目の目的地である、日本十大民家のひとつ、南部曲がり家の「千葉家」をまずは訪ねます。ここは、200年前に建てられた、曲がり家の代表格。曲がり家は、馬と人が一緒に深い雪を避けながら生活するために工夫が凝らされた居住空間です。母屋が馬小屋と直角になっており、上から見ると、L字型になっています。 「遠野物語」の八十話から八十三話にも、図版入りで詳しく解説されています。千葉家は小高い丘の上に石垣を築いて、前面には柵を巡らせ、その上に蔵、納屋、社とともに建っています。
ちなみに、現在も人が住んでいます。2007年に建物と宅地が国の重要文化財に指定されました。
母屋を正面に見た時の、西側の奥に、「正一位稲荷大明神」というお稲荷さんがあります。朽ちた階段が何とも味があります。
神社からの眺め。左に見えるのは蔵です。この千葉家の敷地面積は800坪。 蔵の裏手に、草ぼうぼうの茅葺きを発見し、目を奪われる。ただただ、朽ちたのではなくて、あまりにも芸術的に草が茂っています。これは、必見です。 幾多の年月を数えて、このようになったのか、思いめぐらすと取留めがない。見事なまでに自然と調和しています。
なんと、小さな松まで生えています。この先、100年後くらいにはどうなっているのでしょうか。 土壁。古き良き職人業が偲ばれます。じっと見ていると、まっくろくろすけが出てきそう。遠野には、そういうことが不思議なことではない、なにか独特の雰囲気があります。
こちらが母屋。向かって左、手前に突き出しているところが馬屋(マヤ)と言われる部分で、馬が20頭飼われていたそうです。手前の庭には、L字のコーナー部分には、入口があり、すぐに庭(ニワ)と言われる土間があります。馬と人とが毎日をともに寝起きするための工夫が凝らされています。 こちらは、母屋の東にある作業小屋。
当時の雪国の農作業の様子が偲ばれる数々の道具が展示されています。 屋根の上には、天という紋のある煙出しが見えます。 この紋の意味はどんなだろう?
こちらが、庭(ニワ)と呼ばれる土間。絵馬が沢山飾られていて… 壁には、馬の蹄鉄が埋め込まれています。馬を家族同様にあつかっていたんだなということがよく解ります。 馬屋には今は馬はいませんが、駕篭や、鞍など、馬に関する道具が沢山展示されています。
馬屋の手前は通路になっていて、鞍の方に通り抜けることが出来ます。話は変わりますが、遠野には、オクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシという、家の神様の言い伝えがあります。ちょっと好きなお話を紹介します。
ええ、むかしむかし、あったずもな…
昔遠野の六日町に火事のあった時、どこからともなく小さな子どもが出て来て、火笊(ひざる)をもって一生懸命に火を消し始め、鎮火するとまたどこかへ見えなくなった。その働きがあまりにめざましかったので、後で、あれはどこの子どもであろうと評判が立った。 ところが下横町の青柳某という湯屋の板の間に小さな泥の足跡が、ぽつりぽつりとついていた。その跡を辿って行くと、家の仏壇の前で止まっており、中には小さな阿弥陀様の像が頭から先まで泥まみれになり、大汗をかいておられたということである。(「遠野物語拾遺」六十二話)
…どんど、はれ。
遠野の町の村兵という家には、御蔵ボッコがいた。籾殻などをちらしておくと、小さな足跡がそちこちに残されてあった。後にそのものがいなくなってから、家運は少しずつ傾くようであったという。(「遠野物語拾遺」八十八話) 左側に見える蔵の正面は、二重構造になっていて、蔵の土壁と、木製の壁の間にクリアランスが設けられています。おそらく、吹雪の時に雪が直接蔵の土壁に付かないようにする配慮だと思われます。 トンボ、透キトオル。遠野地方では、とんぼのことを「あげす」と呼びます。ちなみに、ミンミンゼミのことを、「おおじぇみ」と呼びます。
ところで、遠野の民話で有名なザシキワラシ、この神が住む家は富貴自在と言われています。千葉家には、今もザシキワラシが住んでいたりして。ちなみに、ザシキワラシは、「遠野物語」十七話では男の子であるとの記述があり、十八話では、女の子である場合もある、と書かれています。続編の「遠野物語拾遺」では、御蔵ボッコとも記述されています。
ちょっとだけ寄り道をして、JR釜石線、岩手二日町駅の無人駅舎を訪ねてみました。 あたりは延々、田園風景が広がって、まっすぐ延びるレールが牧歌的。 都会の、いかにも時間に追われているかのような、せわしない時刻表と比べてみてください。時間がゆっくり流れています。
駅の近くに、雰囲気の良い廃屋がありました。鉄道職員が使っていたものみたいです。 何にも無い…何もいらない。ああ。萩原朔太郎…。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。
このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。
(「月に吠える」萩原朔太郎)

朔太郎は、田舎の風景を、恐れたんだっけな…。
遠野に来る前にガイドブックなどで下調べした時に「うわあ、これは神がかってるな」と一番戦慄した写真が、続石(つづきいし)の写真でした。千葉家からちょっと遠野の市街地方面に引き返すと、ちっさな駐車場があります。駐車場のは、レプリカなのでこれを続石だと思わぬように。 続石へは、ちょっとばかり運動になる山道を登って行きます。「続石登り口」とありますが、道はどこでしょうか? さて、どんどん登って行きます。思いのほか、疲れる道のりですが、つかの間に…
途中、右側の展望が開けて、こんな、遠野の風景を見ることが出来ます。「遠野物語」の文庫の表紙の版画、そのまんまの風景にため息。深呼吸して、もう一息。 続石の手前には、二本の杉の木に寄りかかるようにしてある、泣石があります。なぜ泣石と呼ばれるかは、続石の説明とともに。 こちらが続石。巨大の岩を、下の岩がたった一点で支えています。一体どういう理屈で、こんなものが出来上がったのだろうか?これについては、「遠野物語拾遺」第十一話にこんな記述が…
綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。(右の写真参照)武蔵坊弁慶の作ったものであるという。 昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜中泣き明かした。 弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。

この写真!ホントに一つの台石一点で支えてます。何か、別の力が働いてるかのよう。
遠野には、数々の見所がありますが、ただただ、お散歩しているだけでも、こんな愛らしい道祖神があったりして、ついつい足をとめたくなります。寄り添ってる恋人同士みたいでしょ。
どんな場所にいても、あなたこなたに神様がいるのではないかと感じます。フォースを鍛えるにはもってこいです。
昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古里という処に住んでいた。後にその一番の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は太田林へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな。(「遠野物語拾遺」一話) 死助の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しいという花なり。五月閑古鳥の啼く頃、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢の中に着けておけば紫色になる。酸漿(ほおずき)の実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。(「遠野物語」五十話)
綾織の村の方でも、昔この土地に天人が天下って、綾を織ったという言い伝えが別にあり、光明寺にはその綾の切れが残っているという。あるいは光明寺ではない某寺には、天人の織ったという曼陀羅を持ち伝えているという話もある。(「遠野物語拾遺」四話) このアゲハチョウ、私の赤いジャケットの肩のパットの黒い部分にじっと止まって離れず、またしばらく走ってバイクを降りて、肩をはっと見ると、きっと、いた。
こんな不思議なことが当たり前に感じられてしまう…。
お昼をゆっくりとる時間もなかった(ホントは、じゃじゃ麺食べたかった…)ので、国道283号沿いの「道の駅遠野風の丘」でカンタンに済ませることにしました。入口には、こんな垂れ幕。今年は遠野の当たり年ですね。
遠野地方は、意外ですけど、ジンギスカンをよく食べるのだそうです。そこで、ジンギスカンカレーを頂きました。カレーもまあ美味しいのですけど、サラダバーの野菜のウマいことにはビックリした。(確か、500円以上のものを頼むとサラダおかわり無料でした)このみずみずしく、濃いトマトの赤色を見よ!トマトばかり、さんざん食べた。じゃじゃ麺食べれなかったけど、これで満足だ。
道の駅のインフォメーションには、カッパ淵の情報が貼られています。今日は、カッパが出るそうです。 ここで、カッパ捕獲許可証を購入します。200円なり。これでカッパ淵で、カッパを釣ることが出来るというわけ。これから本日のメインイベント、カッパ淵に向かいます。 カッパ淵は、遠野駅を中心に見たとき、北東の方にある、伝承園という観光施設の近くの、常堅寺の裏手にあります。バイクはは伝承園の駐車場に停めて、歩いて行きます。これは伝承園のそばにある、早池峰(はやちね)山への早池峰古参道跡の古い鳥居。
こちらが、カッパ淵のある常堅寺。 常堅寺の狛犬は、カッパ狛犬と言われています。その理由を知りたくば、画像をクリック! 常堅寺の裏手、その名も「かっぱぶちばし」を渡ります。
これがカッパ淵。ゆるゆると流れる長閑な、特にコレと言った特徴のある訳でもない川ですけど、役者がいなくてはカッパ淵の風景にはならないんですよ。 これこれ、カッパを釣ってる子どもたちがいてこそのカッパ淵の風景。JRの車内ポスターで、心奪われた光景が目の前に…。めいめい、ここの守人(まぶりっと)から借りた、キュウリやピーマンのついた竿を垂らしています。 さて、ザシキワラシとともに、遠野の民話の横綱クラス、河童について、ええ、むかしむかし、あったずもな……。

小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曵きの子は外に遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽(うまふね)に覆われてありき。
家の者、馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか許さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯せぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりといふ。(「遠野物語」五十八話) 「遠野物語」では五十五話〜五十九話まで、「遠野物語拾遺」では、百七十八話が河童のお話です。河童を生んだ人がいるだの、遠野の河童の顔は赤いだの、様々な伝えられ方がしていますが、頭に皿があるとは「遠野物語」では説明されておりません。 NHKの朝ドラ、「どんど晴れ」でも、主人公が遠野に行き、カッパ淵に落ちるシーンがありました。カッパ淵の守人(まぶりっと)の運萬さんは、主人公の夏美役、比嘉愛未さんとのツーショット写真を嬉しそうに見せてくれました。可愛いねえ。
まぶりっとさんは、河童のことなら何でも知っています。
そんなこんなんで、私もツーショットを撮ってもらいました。この写真、私のたからものです。このあと、名刺交換して、「ホームページに載せるから見てね」と約束を交わしました。 カッパ淵を後にして、伝承園へ引き返す道中に見かけたコスモス。北東北はもう、秋です。 遠野では、雨蛙のことを、「あおびっき」と言います。(擬態で灰色になってるけど)ちなみに、鳩のことを「てでぽぽ」と言います。
伝承園付近にも、遠野の長閑な風景が広がっています。 たき火の煙に降り注いで光る木漏れ日。 交通安全を祈る河童。
伝承園に咲いていたコスモス。伝承園は曲り家などを移築した観光施設ですが、ちょっと人工的な感じがして、興ざめでした。柳田邦男に遠野の民謡を伝えた、佐々木喜善の資料館もあります。 遠く雲の隙間から降り注ぐ、やや傾きかけた日の光と、夕げの合図のかまどの煙だろうか、なんともいえない光景を見ました。 まだまだ見たいところは沢山あったのですけど、ちょっと雲行きも怪しく日が落ちる前に秋田に帰らなくてはならないので、名残惜しいけど遠野をあとにすることにしました。今度は泊まりがけで、ゆっくり来たいと思います。なんだろう、この充実感。
この日は、ちょうど、遠野まつりが開かれていました。駅前周辺では、祭り囃子が聞こえます。 神楽や、太神楽(だいかぐら)、南部ばやしなど、伝統的な踊りを踊りながら、パレードしていく、賑やかな祭りです。 左に見えるのは、しし踊りの格好をした人。お祭りとあって、もっと観光客でごった返してるかと思ったら、そうでもなくて、いつもの遠野の風景が見られて良かったと思います。遠野も、一人旅をおススメします。集団では見逃してしまうようなものが沢山あります。
秋田に到着して、翌日から、全国ニュースになるくらいの記録的な豪雨が秋田を襲いました。そのため、2日間はまるまる足止めでした。3日目、ようやく雨も上がりそうだったので、前から一度行ってみたかった、黄金崎不老ふ死温泉に向けて出発。五能線とランデブーしながら日本海の沿岸を津軽に向け北上します。 秋田道が能代の手前まで完成していました。能代南ICで降りると、米代川が増水して、道が寸断されていました。ボートで家から買い物に出かける人なども見かけました。回り道して国道101に乗っかって、八森近辺から日本海を眺める。津軽に行く時はいつも雨だけど、どんよりした光景も津軽には似合う。 しばらく降ったりやんだりの不安定な天気でしたが、青森に突入すると、ようやく遠く向こう側に青空が見えてきました。あの飛び出たところに、黄金崎不老ふ死温泉はあります。
温泉に入る頃には、すっかり晴れているような、希望が持てる展開になってきました。
憧れの、黄金崎不老ふ死温泉に到着!東北の温泉のポスターの写真と言えば、この温泉の夕陽の光景か、秋田の乳頭温泉か、そのくらい有名な温泉です。湯船の写真は、混浴なので、マナーを守って撮影しませんでしたので、温泉のホームページをみてください。見たことあるでしょ? 露天は混浴と、いちおう女湯があります。混浴の浴槽は、例のひょうたん型のものです。女湯も、大きさは変わらないですけど、ここは混浴の方が、雰囲気です。
内湯で、まずは体を流してから露天に行きましょう。
駐車場のそばには、このように源泉が湧き出てるところがあります。鉄が含まれているので、湧きだすとすぐ酸化して、サビ色になり、それが湯船全体を茶色に染め、夕陽がコレに重なると、まさしく黄金風景となります。ホントは夕方に来るべきでした。
不老ふ死温泉を楽しんだあとは、その先の深浦港に立ち寄りました。以前、太宰の「津軽」を片手に、津軽を一周したことを思い出します。「津軽」の中で、太宰は深浦の風景を「何かあきらめた、底落ちつきに落ちついてゐる感じがする。」と表現しています。 深浦港の観光施設で食事。海鮮丼をオーダー。誰もいなくって、寂しかったですけど、噛み締めるマグロのぶりぶり感が素晴らしかった。三崎のマグロとは、また違った感じがします。 太宰が深浦に滞在したとき利用した旅館は、今は「ふかうら文学館」として生まれかわり、深浦にゆかりのある文人たちの資料館となっています。太宰の滞在した部屋も再現され、故郷の津軽を旅した時の太宰の道のりなども紹介されています。
太宰は、津軽を旅している間、この深浦で一度だけ、東京で留守番している子どものことを思い出します。そして、一枚のハガキをしたためます。そのハガキをかった商店が、ふかうら文学館の向かいに昔のまま、残っています。 私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにしてゐるのだが、心の空虚の隙(すき)をねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上つて町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認(したた)めた。(「津軽」太宰治) 五能線は深浦の駅です。五能線は鉄道好きに人気のあるローカル線ですが、この辺りの無人駅などは、猿が闊歩していたりして結構恐いです。
これは、私の父が描いた、五能線の特別編成列車、「リゾートしらかみ」のイメージ図です。リゾートしらかみは、世界遺産白神山地にちなんだ名前を付けられた編成が3種類走っています。 この日の晩は、兄の家族と私の両親と食事をすることになっていたので、津軽への旅は、今回は深浦までで、来た道を引き返しました。鯵ヶ沢のイカを食べたかったなあ。また時間が出来たら、津軽を一周したいと思います。 秋田道から男鹿の寒風山方面を眺める。豪雨に見舞われた秋田も、ようやくその厚い雲から解放された。明日は秋田を去らねばならないが、最後は好天に恵まれそうだ。
横浜へのUターンの日。天気が良いので、日本海側を南下して、鳥海山を拝んで行こうと思いました。国道7号線から見えて来た、秋田の霊峰鳥海山。標高2236メートル。「秋田富士」「出羽富士」とも呼ばれています。 象潟(きさかた)を超えて、鳥海ブルーラインに入ります。象潟側からアプローチすると、左手に、象潟九十九島(きさかたくじゅうくしま)が見えてきます。ぜひ画像をクリックしてその光景をご覧ください。 この辺は、かつては松島に匹敵するくらいに美しい、多くの小島が浮かぶ入り江状の潟でしたが、文化元(1804)年の大地震で海底が隆起して、小島ごと陸地を持ち上げてしまいました。ですが、水田に水をはる時期は、その面影を蘇らせます。初秋は金色の野でした。
日本海の雄大な光景を左に見ながら、鳥海ブルーラインはどんどん標高をあげていきます。秋田は、八幡平アスピーテライン、男鹿半島、そして鳥海ブルーラインと、ライダーが憧れるワインディングの宝庫です。 展望が開けてくるまでは、スリリングなヘアピンが連続して、スリル満天。展望が開けると、一気にデッカい空に向かって走っていくような開放感に浸れます。 鳥海山は、海岸線から15kmしかはなれていないところにそびえ立ってるため、朝日の時は日本海にその陰を落す事があるそうです。これを、「影鳥海」と呼びます。滅多に見れない、登山者の憧れの光景なんだそうです。
鳥海ブルーラインの折り返し地点、鳥海山5合目の鉾立展望台の駐車場。登山基地などの新しい施設などが出来て、綺麗になっていました。 かつてここにあったビジターセンターは、壊されていました。この写真、ちょっと好きです。異様な感じで…。
遠く、男鹿半島は寒風山まで見えます。 秋田の海岸線は、この高さから見るとこのようにアーチ型になっていて、こう見ると美しいものです。この光景を見ながら、都会に戻りたくないとメソメソしてました。 あれに見えるは、鳥海山の山頂。この鉾立駐車場をスタート地点に、登山客が大勢鳥海山に訪れます。高山植物の宝庫です。まさに秋田の宝。
最終日、こんな素晴らしい青空が見られて良かったと思います。この後は、酒田から山形道にのって、月山を通り過ぎて東北道に合流して横浜に戻りました。横浜に帰りましたとは、言わない。私が帰るところは、秋田か駒ヶ根ですから。
民話の故郷、遠野は、間違いなく日本の古き良き農村の風景であるのですけど、反面、どこか、柵に囲われて、その中で独特の風俗や伝統を守ってるような、異国情緒にも溢れていた不思議な世界でした。目に入るもの全てのものに、言い伝えや、神様が宿っているような気がしてきます。名所も沢山ありますけど、なんとなく適当に散歩していても、道ばたの道祖神や、あぜ道にいきなり立ってる鳥居など、足をフッととめてしまうような風景が沢山あります。遠野に行く際は、「遠野物語」を読んでから行くことをおススメします。
ちょっと残念だったのは、遠野の昔話を語りべの口から実際に聞けなかったことです。伝承園やふるさと村などで聞けますが、予約制なので、また次回、今度は一泊くらいしてゆっくり本物の昔話を聞きたいと思います。
秋田では、未曾有の豪雨で足止めされてしまいましたが、黄金崎不老ふ死、感激でした。そして鳥海ブルーライン。曇りの時に一度走った事がありますが、晴れてると全然違います。鳥海山の5合目から、眼下に広がる秋田の稜線を見て、我がふるさと秋田の美しさを再認識しました。

来年も、遠野に行こうかな。