東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はっきり、よく見える。小さい、真っ白な三角が、地平線にちょこんと出ていて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のほうに、肩が傾いて心細く、船尾のほうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似ている。三年前の冬、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはっきり見えるじゃねえか、めっぽう寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思いは、二度とくりかえしたくない。
 昭和十三年の初秋、思を新たにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
(「富嶽百景」太宰治)

「富嶽百景」は、太宰の小説の中でも「津軽」と並んで、大好きな作品のひとつです。太宰は昭和十三年初秋より十一月の十五日まで井伏鱒二のはからいで山梨県は河口村(現在は河口湖町)の御坂峠の頂上の天下茶屋に滞在し、そこで「火の鳥」を執筆するのですが、「富嶽百景」の中で太宰は、その滞在中の、甲州の自然や、郷土、そこにおける人々とのふれ合いなどを、彼ならではの感性を言葉という素材を用いて活き活きと、色彩豊かに描いています。私が中学生の頃、はじめてこれを読んだ時、この人は言葉の魔術師だと、いたく感動しました。太宰文学を愛するようになったきっかけは、「富嶽百景」だったと思います。

上の抜粋にもある通り、「意外の事実を打ち明けられ」た翌年のこと、(それがなんであるか、その前年に何があったかは、知ってる方も多いかと思うが、文庫の巻末に譲る。)そして、滞在中に井伏鱒二の計らいで石原美知子さんとお見合いし、結婚を決意した(富士山がこの二人の恋のキューピットである!)事などなど、太宰の再出発の金字塔として明るい希望に満ちた、本当に強い輝きをもった、愛すべき作品です。

2004年5月15日、今回のルートは、246をひた走って富士を目指し、山中湖〜忍野八海〜西湖〜河口湖〜御坂峠(天下茶屋)という順番です。帰りは高速を使えば、名勝をゆっくり見たり、温泉に立ち寄ったとしても約12時間で富士の周辺の素晴らしい風景を堪能できます。オススメ!
朝7時に自宅を出て、府中街道から246に出て、ひたすら西へ。連休明けの休日であったせいか、道もなかなかに空いていました。空の青さも十分で、いい富士の写真が撮れそうだと、期待も高まりつつ一路、山中湖を目指す。
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以前勤めていた会社に、富士吉田市出身の同僚がいて、彼がこの忍野八海のことをいたく勧めていた事を思い出して、立ち寄る事にしました。忍野八海に向かう道中の富士も、忍野八海も素晴らしく、感激しました。日本にはまだまだ素晴らしいところが沢山ある。
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忍野八海をあとにして、道の駅なるさわに併設されている温泉に入りました。あの富士の名水を見せられたあとでは、この温泉も、かなりの効力があるんじゃないかしらと思いながら。国道139は、精進湖の手前で県道21号に分岐してます。素晴らしい新緑の中を駆け巡れ、ガンダ・・・い、いや、XJR!
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県道21号は国道137(旧鎌倉往還)とぶつかって終点。137を甲府方面に向かいます。野生のサルが平気で道を渡っていたりするので、注意が必要。目を合わせないように上っていくと途中、トンネルの手前に御坂みちへの分岐点があります。そこを右折して御坂みちをどんどん登ればその峠の頂点に天下茶屋はあります。結構登ります。ホントにあるんかいな?てくらい、寂しく、なかなかワインディングも厳しいです。分岐のところに、天下茶屋が営業中かどうかの看板が出てますので、天下茶屋を目指すならチェックを忘れずに。
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天下茶屋をあとにして、137に再び合流して一宮御坂ICで中央高速に乗って帰宅ルートにつきました。朝7時に鶴見(ほとんど川崎ですが。)の自宅を発って、夕方6時半には帰宅できました。その間、名勝地をゆっくり見たり、温泉に入ったりもでき、日帰りといえど、無理もなく大変充実したツーリングが楽しめます。今度はどこかで宿をとって、もっとのんびり走ってみたいと思います。
今回の天下茶屋への旅は、なんだか目の前がパーッと明るく開けていく感じで、体中の細胞が活性化していくのが分かるような、私の皮膚が光合成でも始めたかのような、不思議の感覚に包まれた旅でありました。
「富嶽百景」の終盤の文章が私、たまらなく、たまらなく好きなので、ノーカットにて掲載します。どこも切りとれない。(ああ、太宰ネタはタイピングが大変だ。校正はしてますが多少の誤植あっても見のがして下さい。)

 
「相すいません。シャッター切って下さいな」
 私はへどもどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを、二枚も重ねていて、茶店の人たちでさえ、山賊みたいだ、といって笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、多分は東京の、そんな華やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、内心ひどく狼狽したのである。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、きゃしゃな俤(おもかげ)もあり、写真のシャッターくらい器用に手さばきできるほどの男に見えるのかも知れない。などと少しうきうきした気持も手伝い、私は平静を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なさそうな口調で、シャッターの切りかたをちょっとたずねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟(けし)の花ふたつ。ふたり揃いの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うように寄り添い、屹(き)っとまじめな顔になった。私は、おかしくてならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。
 「はい、うつりました」
 「ありがとう」
 ふたり声をそろえてお礼を言う。うちへ帰って現像してみた時には驚くだろう。富士山だけが大きく大きく写っていて、ふたりの姿はどこにも見えない。
 その翌くる日に、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿(ほおずき)に似ていた。
「富嶽百景」
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